2009 Vol.7 No.2「海ー自然と文化」東海大学紀要海洋学部  2009年09月30日発行
メルヴィルの『レッドバーン』
-貧困と死-
五十嵐博
要 旨
メルヴィルの私小説風のフィクション『レッドバーン』は,未熟ないなか者の青年が船乗りとなって初めて航海をし,不況時代の冷たく醜悪な世間を目の当たりにする道程を扱っている.しかし,物語が進展するにつれて叙述と描写の焦点は,青年の開眼物語から開眼の対象へと,つまり,冷酷で忌まわしい人間世界,そして船員たちのリーダー的存在のジャクソンに人格化され具現化された人間嫌悪と人間世界に対する憎悪へと移る.

この作品の主題は,世間知らずの青年による現実と悪に対する開眼というよりは,貧困が直面する無慈悲な現実それ自体であり,さらに,ジャクソンに体現されているところの,そうした現実に対する邪悪な対応姿勢である.作者は極貧の事例に照準を合わせてクローズアップし,リヴァプールの貧民や乞食たちの悲惨さ,悪業,悲哀と死を,そしてアメリカへ向かう船内で疫病に襲われるアイルランド出国移民たちの悲惨な窮状を生々しく描出している.物語が終局に向かい,帰航途上の船内で発生した疫病と苦しみが終息し,ジャクソンが死んで彼の憎しみが消えた時,船員たちと「私」は解放される.