2011 Vol.9 No.3「海ー自然と文化」東海大学紀要海洋学部  2011年3月20日発行
メルヴィルの『ピエール』(1)
−キーワードから読み解く「曖昧なるもの」−
五十嵐 博
要 旨
メルヴィルの『ピエール』には多数のキーワードがちりばめられており,謎めいた副題『曖昧なるもの』を解明し,作品を正当に理解するための手がかりとなっている.
導入的キーワード「ミルク」は,うぶな19歳の青年レッドバーンが「一杯のミルク」を出してくれた美しい娘に一目惚れをする『レッドバーン』の田舎の一場面を拡大発展させ,虚構化したものが『ピエール』であることを示唆している.『レッドバーン』でも『ピエール』でも主人公は,聖なる父の偶像の瓦解を通して,人間的現実の暗い側面に開眼する.『ピエール』の前半と後半の設定は対照的で,田舎から都会へと舞台が移行するのに合わせて,楽園と地獄,理想と現実,光と闇,喜びと悲しみ,生と死,そしてイノセンスと開眼が対比的に描かれる.
次のキーワード「騎士」は,物語前半でピエールが対峙し戦い始める「黒い騎士」が,物語後半で「不死身の騎士」として登場するメルヴィル自身を指すことを暗示する.3番目のキーワード「心」は,メルヴィルが『ピエール』で心を追求することを,そして,これには慈悲深い心の追求と人間の深層心理の探求という2重の意味があることを教えてくれる.
他のキーワード群はこの小説の本筋と骨格を明らかにする.「曖昧なるもの」はこの書の本質的な不明瞭さをほのめかし,「壁」は曖昧な「便宜主義」が支配するキリスト教世界を取り囲む障壁を含意し,「近親性愛(インセスト)」はピエールと異母姉と思われるイザベルとの間の曖昧な男女関係を暗示し,「沈黙」は肉体と精神の死の先導者ないし同行者であると同時に曖昧なるものを内に秘める.そして「ハムレット的精神」は,曖昧な「便宜主義」を実践するキリスト教人間社会に対するピエールの批判姿勢を表明している.